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 阪神淡路大震災のこと(精神編) ブログトップ

阪神淡路大震災から12年・・・その3 [ 阪神淡路大震災のこと(精神編)]

そんな私は、毎日心の晴れない日々を過ごしていたのですが、
少しだけ、我を忘れられる時間を見つけられるようになりました。
それは、「イラストロジック」でした。あら、そんなものなの、と思われそうですが・・・
多分、これでなくても良かったのだと思います。
何か、頭を使えて集中できて、気がまぎれるもの・・・
そして、気持ちが高揚しないで、穏やかでいられるもの・・・
私がたまたま出会ったこの条件に合うものが、「イラストロジック」だったのだと思います。
これのおかげで、不安な夜、夜通しこれに没頭し朝が来て少し眠る、
という生活で何とか1人をやり過ごせるようになって来ました。
普通ではないと思いますが、1人でやり過ごせる、というのが進歩でした。
しかし、11月に入り六甲おろしが厳しくなって来た頃・・・
夕方に学校へ行こうとして、突然胸が苦しくなり息苦しくなり、
激しい動悸がして怖くなり、タクシーを停めて大急ぎで乗り込み、
震えながら循環器科へ飛び込みました。
さすがに先生も心配して下さり、いろいろ調べていただきましたが、結局異常は見当たらず。
この辺りから、やっぱり『精神神経科』に行くべきか・・・と思って、
再び、大学健康管理センターへ行きました。すると・・・
「学生相談室」という名に変わっていました。
やはり災害地、こういうものを欲している人はいるのだな・・・と安心したりして、
ようやく、本来行くべきところへ辿り着いた感じでした。
そこで、これまでの経緯をお話したところ、
「今までの症状は『恐慌発作』と呼ばれるものです・・・
難しく感じるかもしれませんが、英語で言えば『パニック』です。
今の状態は、またそうなったらどうしよう・・・という気持ちが再び不安をもたらすもので、
『パニック障害』『不安障害』と呼ばれるものだと思いますよ。」
という診断を頂き・・・なるほど!と、納得出来ました。
で、自分の症状に適切な診断が下された事で安心出来ました。
そして、安定剤を頂きました。
この頃から、薬を少しずつ飲むことが出来るようになりました。
そして、山の上で隔離されたような場所に住むのは精神的にやはり良くないな、
と感じたので、院生活2年目に阪急六甲とJR六甲道の間に引っ越しました。
大学院を卒業する頃には、卒業後通えるように、神経科クリニックを紹介してもらい、
この先生との相性も良かったようで、段々この症状とも薬とも付き合えるようになりました。
やはり、時折起こすパニックはありましたが、
「パニックを起こしたからといって逃げてはいけないよ。
いつも、そこで起きるとは限らないし、起きない場所があるという保障もないでしょう?」
と言われ、確かにその通りだな・・・と思いました。
起きたときでも、少しは気が楽になる場所、というのはあっても、
ここなら絶対に起きない、という場所はないのです、確かに。
こうして、この症状と付き合うようになり、山越え谷越え、もう10年を越えるのですね。
神戸にいた頃、一時期は薬がいらない時期もありましたが、
今は、こちらへ引っ越して来て、回りに誰も身寄りがいない、ということもあり、
薬を全く飲まずには過ごせないようです。
が、ここでも、知り合いも増え、いろいろ相談できる友達も出来たし、
こちらに来て何件か回って見つけた先生とも相性が合ったようで、
薬の量は、少しずつ減ってきています。
それに、薬の使い方もさすがに慣れたようで、
状況に応じて、自分で薬の種類・量を決めて飲めるようになりました。
発症は、確かに阪神淡路大震災後で、当初は随分苦しみましたが、
元を正すと、多分、私の中で持っていた持病のようなものだと思うので、
これは、一生つきあっていくのだろうと思っています。


最後の方は、地震とは関係なくなってしまいましたが、
こういうことを乗り越えて、今の私があるのだと思います。
すべてをひっくるめて私なのだから。
災害や事故によって受ける人のダメージは様々だと思います。
でも、命ある限り、やはり生きていかなくては、と思う今日この頃なのです。

最後に・・・
様々な天災・人災・事故・病気等で亡くなられたすべての方のご冥福をお祈りいたします。
特に今日1/17は、阪神淡路大震災の犠牲となられた皆様に哀悼の意を表します・・・


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阪神淡路大震災から12年・・・その2 [ 阪神淡路大震災のこと(精神編)]

震災後、だんなさまの実家に一時避難させていただいた5日間、
大きな災害の興奮の後、ということもあったと思うし、
それだけの長い時間、一緒にいた事もない、ということもあって、
あんなに気持ちが休まったときはなかったと思います。
それから、だんなさまを、精神的に必要以上に頼っていたのだと思います。
だんなさまが旅行に出かけた朝から、私は動悸が止まらず、何も手につかない感じ。
でも、理由のない不安感に襲われて、じっとしていられないので、
とりあえず、自分が起きているのか、夢なのか、もわからないようなふわふわした状態で、
人ごみに出て、お中元の手配をしたり、その他いろいろ用事を済ませたり・・・
詳しくは覚えていないのですが、とにかく一日休まず動いていたと思います。
お中元の手配をするために伝票を書く手が、汗でびっしょりで、手が震えていた事だけは、
鮮明に覚えていますが・・・
人ごみにいれば、何かが起これば誰かが助けてくれるだろう、という気持ちだけで
人のいるところを渡り歩いていたような気がします。
夜が来て、すごく不安な心のまま、下宿に戻り・・・
その夜待っていたのは、どうにも止まらない不安感でした。
動悸、焦り、あまりの動悸に私は死ぬのか・・・という不安・・・
不安が不安を呼び、どうしたら良いのやらわからない状態。
どうにも息苦しくなって、クラブの同期の友達に電話。
夜明けが近づくまで、話をしていたと思います。
万一、私が倒れて話さなくなれば、助けに来てくれるだろう・・・という気持ちと共に。
翌日から、私は、不安のあまり、普通の生活が送れなくなってしまいました。
昼間はまだ、ドキドキのままでも何とかやり過ごせても、夜が来ると・・・どうしようもなくて。
次の日は、夜遅くまで最寄り駅付近で過ごし、その後タクシー乗り場まで行って帰ろう、
と思うけど、ドキドキしてきてタクシーに乗ることが出来ません。
大学の同期の下宿友達に電話をして、友達の下宿に泊めてもらうことに。
その同期の家から、だんなさまのところへ何度となく電話しますが、つながらず・・・
2時間ほどして諦め、夜通し友達と話しこんで、朝が来て家に戻ったのでした。
それからは、下宿に1人でいることが出来なくなりました。
昼間でさえ、1人になるのは不安で不安でたまらなくなりました。
だんなさまの下宿においてもらったり、
事情を話して、西宮に住んでいた親戚の家においてもらったり・・・
さすがに普通でない、と思って、大学の健康管理センターにも行きました。
が、当時の私には『精神神経科』の文字があまりにも重く、受付の手前で引き返してしまい、
とりあえずこれは更年期の症状にも似ているか、と、
以前からお世話になっていた女医さんの産婦人科に行きました。
そこで、話を聞いてもらって、薬を頂いて・・・
でも、せっかく頂いた薬でしたが、やはり薬を飲むことすら不安でいっぱいでした。
漢方は飲む事が出来ましたが、錠剤の精神安定剤は飲む事が出来ませんでした。
何度か目に、病院を訪れたとき、産婦人科の先生が、
「紹介状を書きましょうか?」と言って下さったのですが、
また、『精神神経科』に対する不安がたちどころに浮上し、
「もう少し漢方だけ頂ければ、落ち着きそうです。」と言って、また、避けてしまいました。
それからしばらく、だんなさまの下宿に無理矢理おいてもらっていたのですが、
半ば寮のようなところに下宿していただんなさま、
女性が入るのは禁止、ということで、おいてもらうことは不可能になりました。
1人でいる下宿・・・もう怖くて怖くて。
下宿が怖いわけでなくて、とにかく、1人になるとだめで、
だからといって、一緒にいる人が誰でもいいのか、というとそうでもなくて、
安心できる人、というのはホントに限られていて・・・
多分、弱い自分をさらけ出せる人の前でしか、安心出来なかったのだと思います。
そして、食欲は落ち、何もやる気にならず、眠れず、当然体重は減り・・・
メンタル値は下がる一方で、なぜ人は生きているのだろう・・・とか考え込んだり。
そして、不安感は募るばかりで、電車に乗れない、とか、美容院に行けない、とか・・・
出来ない事だらけになりました。多分、数え上げたらきりがないと思います。
そんな私を少し救ってくれたのは、西宮の親戚のところにいた小さな従兄弟。
初めてお邪魔したとき、まだ1歳過ぎだったと思います。
何だかとてもなついてくれて、無垢な存在に触れる事でだいぶ癒されたりしました。
後、無理やり続けていた、アルバイトと楽器。
非常に苦痛で仕方なかったのですが、これを辞めたら、私はホントに何も出来なくなる・・・
という気がしていました。多分、本当にそうだったと思います。
(その3に続く)


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阪神淡路大震災から12年・・・その1 [ 阪神淡路大震災のこと(精神編)]

早いもので、また、この日がやって来ました。
毎日毎日があっという間に過ぎて行くわけですから、当然なのですが。
もう12年・・・段々風化して忘れられていくのでは・・・という危惧を常に抱いているのですが、
今日のこちらの地元新聞のコラムは、阪神淡路大震災でした。
それと、15~17日の間、小さい扱いながら、特集が組まれていました。
TVでも、FMでも、この事に触れないところはなく、やはり大地震だったんだなー、と・・・。

私なりの阪神淡路大震災については、昨年まとめました。(阪神淡路大震災のこと(事実編)
この後の私について、ここで書く必要があるのかどうか・・・ここ数日迷っていたことです。
地震時の私の体験事実については、昨年まとめたし、
その後の精神的ダメージを、不特定多数の方が見るこの場所に書く必要があるのか?
自分だけで、日記にでもまとめておけばいい事かもしれない・・・
でも、きっといろんな災害や事故にあって、
その後つらい時を過ごした方や過ごしている方もいるはず。
だから・・・やっぱり、自分の気持ちをまとめるため、
災害後の精神の揺れの一事例を知ってもらうため、書く事にしました。


震災後、私が神戸に戻ったのは、2月下旬の事でした。
理系学部は、卒業論文を仕上げるため大学が再開されていた様ですが、
私の場合は、実技試験はすべて中止となり、試験は小論文のみとなったため、
ずっと、所沢の実家に戻ってボーっとしていました。
神戸に戻る事になったのは、当時アルバイトしていた進研ゼミから、
研修があるので出て来れないか、という電話がかかってきた事と、
寮はガス・水道とも復旧した、という連絡があったからでした。
寮に戻ってみると、意外に多くの寮生が戻っていてびっくりしました。
それに、ボランティアをしている子もたくさんいて、改めてたくましさに感心しました。
が、「就職に有利だから・・・」とか言って、ボランティアにいっている子もいて、
それには正直嫌悪を覚えました。
こんな時に、そんな風に利用するなんて・・・許せない気持ちでした。
そういう私は、ボランティアをするような元気はどこにもありませんでした。
というのも、私は寮に戻ってから、時折急にドキドキしたり、汗がふき出したり、
落ち着かずじっとしていられなくなったりしていました。
(これが、パニック発作だと、後に知ることになります。)
もともと、非常に緊張しいの私は、発表会前や試験前などに、
そういう気分になる事はありました。
昔は、(緊張で死ぬ事はないない!)という気持ちで乗り切っていましたが、
大学受験の年、センター試験中に亡くなられた方がいて、
(緊張で死ぬこともあるんだ・・・)と、今までの支えがガラガラ崩れてからは、
演奏会前、試験前、などはかなり動揺していました。
が、それは、すべてきっかけがあっての事、何もないのに突然ドキドキ・・・なんて、
これまでにはなかった体験でした。
それでも、まだこの当時は、(ちょっと我慢すれば治まる・・・)と経験上解っていたのと、
寮暮らしゆえに、一緒にいて安心できる友達がいた事で、ひどくならずに済んでいました。
しかし、寮はこれまで一部屋3人だったのを、
震災後の特例措置として4人にする事になりました。
私は、大学院に進学でしたので、寮に残る事も出来たのですが、
荷物が多くて・・・4人では暮らせないだろう、と判断した事と、
そろそろ1人暮らしを始めてもいい頃だ、という気持ちから寮を出る事を選びました。
3月末、寮を出て、1人暮らしを始めました。
本当は、これだけナーバスな時期に、1人でいないほうが良かったのだろう、
と今となっては思いますが、当時、かなり気の強かった私は、それに負けまい、
と1人暮らしを選んだのでした。
1人暮らしに選んだ場所は、大学から山を一つ隔てた山の上でした。
大学に行くには、歩いて行かなくてはなりません。
原付が嫌いだった私は、免許もないし、乗る気もなく、歩いて通っていました。
が、大学院は、大学の延長でもあり、研究という名の下に、実は暇でした。
特に、1年目は論文も目前でなく、実技専攻でもなかった私は、講義以外は暇でした。
新しい学年になって、近くの街並みをあちこちあるいて回るようになると、
(実際、鉄道も復旧していないところもあったし、結構足が頼りだったのですが)
壊れた街、壊れた家、壊れたお墓・・・いろんなものが目に飛び込んできます。
変わり果てた街を見るにつれ、私は複雑な気持ちになっていきました。
こんなに多くの人が亡くなっているのに、被害にあっているのに、
私はたいした怪我もなく、身内もみんな無事で取り合えず住む場所もあって、
友達や先輩、先生方も、私が知っている人はみんな生きていて・・・
こんなに恵まれていていいのか???
という、罪悪感にかなりさいなまれるようになりました。
それでいて、困っている人のために何か出来るか、というと、
そういう人たちと会うこと自体が何だか怖くて、出来ないのでした。
今なら出来るかも・・・うーん、わかりません。
今、落ち着いているからこそ、そう思うだけかもしれません。
とにかく、何も失わず、生活に追われるわけでもなく、のほほんと生きているようで、
普通に暮らせていることに対して、後ろめたさを覚えるようになっていき、
そして、突然起こるパニック発作も、徐々に増えていくようでした。
現在のだんなさまとは、大学のクラブが同じで知り合ったのですが、
クラブは、震災前の年末で引退していました。
だんなさまもまた大学院に進学だったのですが、学部が違うし、
大学でも、それ以外でも、進学後の自分の生活を着々と築いているようであり、
なかなか会う機会も減っていき、
さらに、同期はほとんどが就職してしまって会う機会も減り、
私は、気分的に何となくどんどん孤立していったように思います。
そして、決定的にパニック症状を起こして、どうしようもなくなったのは・・・
だんなさまがゼミ旅行に出かけた7/22の事でした。
(その2に続く)


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