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 阪神淡路大震災のこと(事実編) ブログトップ

阪神淡路大震災から11年・・・その5 [ 阪神淡路大震災のこと(事実編)]

翌朝、避難所ではトイレが大変なことになっていました。
何しろ、水が止まっているのですから、流れないわけです。
大学生の皆さん、ご協力おねがいしまーす。」
という、小学校の先生の言葉に重い体をひきずって出かけます。
行き先は・・・学校のプールからトイレまでのバケツリレー!
その当時は、大学生だからってみんな元気とは限らないのよ!!
などと勝手なことを思ってましたが、今思えばこれぐらいのこと、当然ですね。
気づくと、男子寮の方からも避難してきた人々がいたようです。
男子でも、やっぱりあのオンボロはやっぱり不安か・・・と思うと少し救われた気分。
その後、形ばかりの市からの配給がありました。
少々の水と、パンなど・・・。当然、子ども、お年より優先です。
私たちにも回ってきましたが、私のところに来たのは”肉まん”。
しかも、普段は温めて食べるやつ。
心身ともに疲労困憊のヨワヨワな私、とても食べる気がせず、他の方に差し上げました。
その後、寮で話があるというので、一旦寮に戻りました。
そして、実家に電話すると・・・
「連絡取れたよ。みんな、一応無事だって!」と言う母の言葉。
全身脱力でした。良かったーーー。一安心。ちょっとホッとしました。
ところがそれも束の間、寮で聞いた話は・・・
「寮はとりあえず今日閉鎖することになりました。
皆さん、とりあえず寮は出てください。」との事。
私の実家は所沢だよー。新幹線も止まってるしー。
どうやって帰れって言うのよー。親戚もみんな西宮で避難中。
一人増えるだけで邪魔だっちゅうのに・・・。などと、頭の中でグルグルグルグル・・・。
ここで、またしてもパニック心臓バクバク。余計に、冷静に考えられません。
よく考えれば、何とか大阪までたどり着けば、所沢まで帰れたと思うんですけど。
当時は、ホントにどうしたらよいのやら全くわからなくなりました。
思い余って、現在のだんなさまにTEL。すると、
「今、電話しようと思ってた。実家(大阪府)に帰ろうと思うんだけど一緒に来る?」
と、信じられないほどありがたいお言葉・・・。
「いい?今、寮閉めるって言われたところで・・・。」と言って、お世話になることに決定。
そして、寮から阪急西宮北口駅まで、原付二人乗りで”逃亡”。
西宮北口駅から大阪方面には、電車が動いていたのです。
”逃亡”中、避難のため歩いている人の波。壊れた建物の数々。原形をとどめないもの多数。
道もでこぼこ。通るのも一苦労。場所によっては、通ることも出来ず、反対車線を逆行。
などなど・・・で、ようやく西宮北口に到着。
電車はすし詰め状態。そして、大阪に着いてみると・・・
全然普通!!!地震の後すら感じられない。
なんなのこれーーー。私たちが今見てきたものは?失われた命は?
ホントに信じられませんでした。おんなじ関西なのーーー?
理不尽に感じるままに電車を乗り継ぎ、だんなさまの実家に到着。
ここで一週間ほどお世話になり、新幹線が新大阪まで復旧した後、
私の当時の実家所沢へ帰ったのでした・・・。


こんな重たい記事を書き連ねてしまって、すみません。
何しろ私の記憶の整理がしたかったのです。初めてです。こんなに文章にしたのは。
この後、私は精神的なダメージをかなり受けることになりますが、
話が重過ぎるので、このシリーズはとりあえずここまでにします。
読んでくださった皆様(いるのかな?)、ありがとうございました。


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阪神淡路大震災から11年・・・その4 [ 阪神淡路大震災のこと(事実編)]

寮から避難することにしたので、心配かけないように実家に電話しました。
「今日は小学校の体育館に避難するから・・・。」と言うと、
「そうしなさい。その方がこっちも安心だから。」と母。
その後、思いがけない言葉を聞きました。
「仁川(の母方の私の祖父母)と連絡が取れないの・・・。」
えっ・・・心臓がドキドキします。
「他は・・・?(西宮には、他にも母方の叔父や叔母が住んでいます。)」と私。
「誰とも、連絡が取れない・・・。」
「全滅ってことはないと思うから、誰かと連絡取れるといいんだけど・・・。」と母。
「わかった。私も連絡取ってみる。何かわかればまた連絡して。」と言って、電話を切りました。
どうしよう・・・どうしよう・・・。
祖父母の家は、お世辞にも立派な家ではありませんでした。
これは・・・ダメかもしれない・・・。
私が、地震後最初に起こしたパニックでした。当たり前ですね。こんな時には。
小学校へ避難しましたが、私はもぬけの殻のようになっていました。
小学校でも、既に電気は復旧し、体育館は電気ストーブテレビがついていました。
その傍で、寮生の子達が炊飯器でお米を炊き(電動ポットに残っていた水で)
せっせとおにぎり作っています・・・。すごいバイタリティ。
私って、何かあったら最初に脱落するタイプだ・・・とボーっと見つめるのみ。
出来たおにぎりを「食べていいよー。」って言ってもらったのですが、
食べ物はおろか、水ものどを通らない心境。
テレビでは、長田の火災ばかり放映し、一時間毎に犠牲者名簿が読み上げられています。
私は・・・怖くて怖くて犠牲者名簿の名前を聞くことが出来ませんでした。
祖父母の名前があったらどうしよう・・・どうしよう・・・。
現実を見つめなきゃ、と思いながら、とても出来ない。
その様子に気づいた寮の後輩が、「どうしたんですか?」と心配してくれます。
「名前は?」と聞いてくれたのですが、
「あったら嫌だから、言えない・・・」と人の好意を無にして、私は体育館の外に出ました。
外に出ると、なんて綺麗な夜空・・・。あんなに星が見えたことはない・・・。
はっ、と気づきました。そうか、停電してるからか。
下を再び見てみました。真っ暗。全然電気復旧してないんだ・・・。
そして、あちらこちらに見える炎、炎・・・。
えっ、火事消えてない!?何で。どうして。
状況のわからない私、火事がなぜ消えないのかわかりませんでした。
後からわかるのです、そういうことは。当事者には情報は入りません。
とにかく続く余震、一時間毎に確実に200人ずつ増えていく犠牲者の名前に耳をふさぎながら、
普通の服の上にコートを着、布団を被って、体操用の学校のマットの上に横になり、
寝たか寝てないかわからない状態で、一夜を明かしました。
(その5へ続く)


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阪神淡路大震災から11年・・・その3 [ 阪神淡路大震災のこと(事実編)]

私の住んでいた寮は、とりあえず建物は非常口の看板が垂れ下がった程度で無事。
隣の男子寮のブロック塀は、作り直した直後でコンクリートが固まってなかったのか、
綺麗な形のまま、バタン、と倒れておりましたが、大きな被害はそれだけ。
それだけに、寮生は誰一人として事態の重要性に気づいていませんでした。
窓から外を見て、
「あー、あの塔のてっぺん、曲がってるー!」「ほんとだー、すごー!」とか、
「一応バイトあるかも知れへんから行ってくるー。」とか、
「何か、高速道路が倒れたらしいよー。」「えー、見に行こうー!」とか・・・
こんな感じの会話があちこちで繰り返され、
中には各部屋を回っては「この部屋は震度5!」「この部屋は震度10!」
などと、ふざけ遊んでいる子もいました・・・
今思えばみんな災害でハイになってたんでしょうけど。
しかし・・・
バイトに行った子は「六甲道の駅落ちてた・・・。」と落ち込んで帰ってきて、
野次馬に行った子達は、「あんなとこ、行ったらあかん・・・。」と青ざめており・・・
だんだん、尋常ではないことに気がつき始めました。
ラジオで芦屋で200人生き埋めって言ってるよー。」と誰かの声。
その時は、(どうやったら生き埋めになるんだー、それは嘘でしょ。)と思ったのですが・・・
200なんてもんじゃないですよね・・・今思えば。
その頃、現在のだんなさまから電話。
「今日無理だよ・・・。阪急停電してるし。」と一言。
どうやら、下界に出かけ事態の深刻さを見てきた様子。
その状況を目にはしていない私、
「私も、止めた方が良さそうだと思ってたとこ。」と返事をして、
その日の予定はキャンセル。
部屋の片付けは、また地震で物が落ちてきても嫌なので、
落ちたものは全て段ボール箱へ詰め込み、終了。
オンボロ寮が次の揺れに耐えるのかどうか全く自信がなかったので、
近くの避難所へ友達と行ってみました。
初めて歩く、地震後の外・・・。
道路はでこぼこ、公衆電話に並ぶ人々。
小さな個人商店に並んで食料などを買い求める人々。
だんだん、怖さがつのってきます。やっぱり尋常じゃない。
近くの避難所へ行ってみると、顔見知りの同じ学部の子がいて、
「大丈夫だったー!?」と話しかけてきてくれました。ほとんど話したこともないのに。
心細かったのでしょうね、すごく。
「下宿が壊れて住めなくなったからここに来たの・・・」との事。
えっ、建物壊れてるのーーー・・・。
周りを見渡すと、同じような人がポツリポツリと心細そうに座っていらっしゃいます。
そして、避難所の方から
「住めなくなった方々がここに来られるので、建物が大丈夫なら帰ってください。」
と言われてしまい・・・(そりゃ、当然だ!!)、
寮から歩いて5分ほど下ったところにある付属小を訪れてみました。
付属小の体育館が、急遽避難所になる様子。
「ここ来てもいいですか?」と聞くと、「どうぞー。」と快い返事。
誰かが、「今日、学校ないんですかー?」と質問。
学校の先生、呆れ顔で・・・「それどころじゃないよー。」と一言。
質問した子は「休みなんだー!」なんて言ってましたが・・・
下界は想像以上に何かが起こっているぞ!と私が確信した一瞬でした。
その日の宿は、付属小の体育館と決まり、女子寮の場所を作りました。
ちなみに、避難組と寮居残り組みは半々ぐらい!?だったと思います。
その時、付属小の運動場から下を見るとあちらこちらから煙が・・・
(あっ、火事が起きてる・・・。)
でも、その時は昼間だったので、そのうち消し止められるんだろう・・・と思っていました。
まさか、まさか、水がなくて消せない、とか、消防車が行き着けないとか、
そんな状況は想像できるはずもありません。その当時は。
その後、寮へ戻り、毛布など防寒具と手持ちの食料だけ取りに出かけました。
一応、という感じで、全く空腹感はなかったですが。
神経が高ぶっていたのでしょうね・・・。
その頃、寮では早くも電気が復活。確か午後4時。
「総理大臣が会見やってるよー。」の言葉で、みんな食堂のテレビに集結。
私は・・・ちょっと怖さが体中にやってきていて、
テレビを見る勇気がありませんでした・・・。
部屋に戻るのすら怖くて出来なくなっていて、
クラブの後輩で同じ寮生の子に布団取って来てもらいました。
そして、寮から逃げるように避難所の体育館へと出かけたのです。
(その4へ続く)


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阪神淡路大震災から11年・・・その2 [ 阪神淡路大震災のこと(事実編)]

阪神淡路大震災といっても、被害を受けた範囲はあまりにもひどすぎ広すぎます。(大間違い)
そこで、私が住んでいた地域と私が過ごした場所を限定して記録するため、
地図を作ってみました。

矢印が、私が住んでいた辺りです。
この辺りに在住の方ならよく御存知だと思うのですが、
神戸には、電車が3本並んで走っています。
上から、阪急電鉄、JR、阪神電鉄、です。
そして、被害は阪急より南、つまり海側にひどく発生しました。
私は、かなり山の手に住んでいたので、被害は非常に軽いものです。
そんな程度の被害じゃなかったよ!!とお怒りの被害者の方も多々おられると思いつつ、
朝からの出来事を、続けて記録していきます。

夜が明けてきて、電話は緊急以外は使わないほうがいいよなー、と思っていたのですが、
遠く離れた実家が心配していると思ったので、実家に電話しました。
もちろん、既にライフラインは停止状態、電話も繋がらない、
まだ、携帯電話は普及前、という状態でしたが、
寮の電話は、着信専用、かける時は公衆電話、ということで、
公衆電話が3台寮にあり、これが幸いして実家と連絡がすぐに取れました。
公衆電話は一般電話より優先して繋ぐようになってるそうですね・・・この地震で知りました。
親に電話して、「大丈夫だから!」と言ったのですが、
「あ、良かったね。大変だった?」などとのんびりしたもの・・・
よくよく後で聞いてみると、7:00頃では神戸辺りの様子はまだよくわかってなかったそうですね。
後になって、母から「よく、あの時電話してくれたねー、お陰で心配せずに済んだよ。」
と言われました・・・京都の震度5が速報で一番に流れたそうで・・・。
この後、現在のだんなさまに電話。
「大丈夫?」と聞くと、「うん、寝てた。」と返事が・・・えっ、寝てたー、あの後ー!!!
「だって、暗いし寒いしやることないし・・・。」びっくり。だって余震もあるし・・・
だいたい、部屋メチャメチャで寝るような気分にはなれなかったけど・・・。
だんなさまも、六甲のかなり山の手に住んでいたので、被害は少なかったのでしょう。
さらに、状況のわかっていない私たちのおバカな会話は続きました。
「今日、演奏会どうする?」
「とりあえず行くことにしとこうか?」
「じゃあ、阪六(阪急六甲駅)17:00位に待ち合わせる?」
「うん、じゃあまた後でね。」
こんな感じ。まさか、電車が全く使えない・・・どころの騒ぎじゃないなんて夢にも思いません。
夕方までには、それなりに落ち着くんだろう、とのんきなものでした。
頻繁に起こる余震にはおびえつつも、佐渡裕指揮の京大の演奏会に気持ちは向いていました。
それと、今日授業あるのかなー、などという平和な心配。
その日は、私は、編曲法の発表の日だったもので・・・。
そして、再び部屋の片付けに着手!
唯一の情報源は、ラジオ
誰かが持っていたラジオが廊下に置かれ、そのニュースを聞きながら片付けていました。
そのニュースを聞くうちに、だんだんと尋常でない地震の様子がわかってくることとなりました。
(その3へ続く)


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阪神淡路大震災から11年・・・その1 [ 阪神淡路大震災のこと(事実編)]

今日は、どうしても書き記したいことがあります。
私がブログを始めて、初めてやって来た1/17。
忘れもしない、あの阪神淡路大震災の日。
今朝は、息子がなぜか「眠れない・・・」と5時ごろ目を覚まし、
私のベッドの中に入り込んできました。
そこで目が冷めた私、5:46まで起きていて黙祷をしました。
ただただ、亡くなられた方のご冥福をお祈りしながら・・・。
私なりの阪神淡路大震災を文章に残したいのです・・・忘れないうちに。

話は1995年1月にさかのぼります。
この時、私当時大学4回生。大学の交響楽団に所属していました。
1994年に無事学生最後の演奏会を終え、練習もなくなったので、
年末年始に2週間ほど実家(当時所沢)に戻りました。
こんなに長く年末年始に帰省したのは、大学に入って初めてのことでした。
そして、神戸に戻った1/8の夕方、軽い地震がありました。
それから、1/16の夜、再び軽い地震がありました。
それまで、「関西は地震がないんやでー。」と地元の人たちに聞かされていた私、
(関西にも、地震は起こるやん。)と思ったのです。まさか、余震とも思わず・・・。
現在のだんなさまとは当時から付き合っていましたが、
1/16までだんなさまはゼミのスキーに行っていて不在。
1/17には、京都で京都大学交響楽団の定期演奏会があり、
それを一緒に聴きに行くことにしていました。
そのため、1/17の午前2時ごろまで電話で話をしてから就寝。
そして・・・午前5時46分、あの揺れが起こりました。
寝るのが遅かったこともあり、何が何だかわからないうちに揺れははじまり、
まるで絶叫マシーンで体中揺さぶられているような感じでした。
訳のわからない叫び声を上げていたように思います。
途中でやっと身の危険を感じ、はっと周りを見渡すと、
既に私の横にあったテレビとエレクトーンは私とは反対側に倒れた後。
私のほうに倒れていたら・・・今の私がいたかどうか・・・。
そして、揺れがおさまるのと同時に、
電車が遠ざかるように響く、がたんがたんという物音・・・。
ここで初めて(これって・・・地震・・・?)と気づきました。
その後、大学の寮から外に一時避難(とっても古い大学の学生寮に住んでいました)。
パジャマの上にはんてんをはおり、部屋から靴をはいて、
物でふさがれた通路を乗り越えて、怖さで震える体を落ち着かせようとしながら・・・。
外で、仲の良い友達と会って話が出来、ようやく少し落ち着いたのです。
その後、夜が明けて明るくなってきた頃、部屋に戻り片づけを始めました。
まさか、あれほどの大被害が起こっているとは夢にも思わず・・・。
(その2に続く)


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